小林秀雄 「考えるヒント」 歴史

「考えるヒント」の中の「歴史」という題の作品は、読んでいて非常に考えさせられて面白かった。

「変わり者」という言葉から話題は切り出され、著者にとっての個性とは何か、世間で言われる個性とはどこが違うのかが述べられている。通常我々は、個性という言葉を聞くと、他人とはどこか違うことをしていることを指すことだと思っている。しかし、それは個性ではないと著者は言うのである。他者と異なろうとするだけの行為は個性ではない。ボードレールの言葉までも曳きだしてきて、他人と異なろうとするだけの行為が個性的ではないということを読者に突きつける。そんなものは、すぐに見破られてしまうと。

では個性的とは何かということになるが、それは自分自身を真に生きて、別に人と異なろうとしたわけではないのだが、どうしてもそういう風にしか生きられない変わり者のことをいうのだという。さらに、人権の平等を唱えているうちに、個人が個性を失いのっぺらぼうになっている、そういう警告を発してもいる。

フロイトの「自伝」を読んだ話も面白い。フロイトの研究によって、意識と無意識の関係が明るみに出たわけであるが、無意識の大きな海の上に浮かぶ小さな波のような意識というイメージは、その関係が複雑であるだけに、混乱をもたらしているようだという。何故なら、根本にある無意識を説明するには、無意識の上に浮かぶような小さな意識によってしか理性的に説明ができないのであるから。

また、フロイトによると、無意識の世界の探求には強靭な自我がないと耐えられないのだという。我々が抱えている心の世界は、それを覗こうとすると、他のものとも比べようもないくらいの重量で以って我々の精神にのしかかってくるからである。

私の心は私の自由になるような、私に見透しの利くようなやくざな実在ではない。私は、自分の心という、ある名付けようもない重荷を背負わされている。フロイトはこの全重量の経験が、ショーペンハウエルにもニイチェにもあったことを見た。彼らの人間に対する洞察が、自分が苦労を重ねた観察の帰結に、驚くほど合致するのを見た。(p78)

現在の心理学者は理論を弄んでいて、実際のこの重量を自分で感じたことがあるのだろうか、果たしてこの重量に耐えられるような者であろうか。

そして、最後に歴史的な意識という言葉が出てくる。我々は歴史との間に、個人としての係わり合いを断ち切って、客観的に歴史を見るようになっている。歴史上の事件を、外側か眺めて、今の自分とは切り離された単なる事実として扱っている。しかし、それでいいのかと著者は問いかけるのである。それは、我々が自分自身の精神世界で過去を振り返り、自分自身で追体験できて初めて歴史は存在するといっているのではないかと思う。我々の生活は歴史の中で脈々と続けられているのであるから、それを無視していいのかというのである。

うまく表現できないのであるが、確固とした自分自身が存在できて、その基盤の上で初めて歴史は存在できる。歴史という大きな流れの中に存在する我々個人が、個性的に生きるという問題にも答えを出せずにいるのに、歴史という流れを見ることはできない。まずは自分を見よ。


「考えるヒント」 文春文庫 小林秀雄著



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