大島末男 「人間とは何か」

「人間とは何か」という問いは、人生の困難に直面して悩むときに、誰もが自らへ問いかけるものではないだろうか。しかし、その問いへの答えは得られず、問いは永遠に続くものであろう。

本書では、哲学者やキリスト教神学者のいくつもの思想を辿ることで、この問いを改めて考えていくものである。その問いは、自己超越として扱われる。

ギリシャ哲学の黎明期には、万物の根源は何であろうかということがいわゆる自然哲学者たちによって問われていた。しかし、ソクラテスによって人間の内面へと根源的な問いが向けられることになる。ソクラテスは、問いかけを通じて、議論相手に「無知の知」を気づかせるが、これは古い自我に死んで新しい自我に生まれ変わるのに対応すると言う。実は、この古い自我に死んで新しい自我に生まれ変わるということ、つまり「自己超越」を辿ることこそ、本書の主眼であり、「人間とは何か」という問いへの答えへ導いてくれるであろうというのである。

自己超越を如何に扱うのか。エリアーデは「聖と俗」の中で、古代世界では、原初の混沌から世界の秩序を形成した神の行為を正確に繰り返すとき、人間は世俗的な自己を超越し宗教的な存在になれるのだと説いている。古代世界の人間にとっては、古典つまり神話こそは生きる規範であった。神話で語られる神は行為の模範を示してくれ、人間はそれに習うことで自己超越的に生きることが出来たのである。聖と俗の区別。俗である古い自我に死んで、聖である新しい自我に生まれ変わること。

近代のカントによれば、動物と違って、人間は精神と実践理性を持ち、人間の良心は神や掟などの外部からの強制によって律せられるのではなく、自律的で無条件の遂行を求める。欲望や打算的なものが命ずることを排し、良心という内部的な道徳律に基づいて、純粋に行為することができるのである。これがカントにとっての自己超越であった。人間の自然な行為から離れ、自らの良心に基づいて生きることである。

キルケゴールは、旧約聖書に出てくるアブラハムがイサクを神に献げる物語から、アブラハムの内面を分析している。神はアブラハムに対して、息子イサクを犠牲として献げよと命じ、アブラハムはそれに応じる。息子を犠牲として献げることは倫理的、道徳的には許されることではないが、宗教的には了承できるものである。キルケゴールにとっては、この部分で、理性的、道徳的なものから宗教的なものへと自己超越があったのである。

人間は生きている限り時間によって支配され、不安におびえる。例えば将来成功する可能性があると同時に失敗する可能性もあり、心配し不安におびえるのである。ハイデッガーによると、時間は人間の外に立っていて、脱自的な構造を持っている。脱自的に生きることが、人間の本来的な在り方であり、自己超越であった。初期のハイデッガーは、自分の力で脱自的に生きようと試み、それは失敗に終わった。後期ハイデッガーは、存在者の中に隠れているが、存在者を支えている存在に応答することが脱自的に生きることだとした。

バルトによると、人間は殻の中に閉じこもった孤独な存在ではなく、神と世界に対して開かれた存在である。そして、真の意味で実存する人間は、神と隣人との交わりの仲に生きる人間である。人間とは、自己に対して語りかけてくる他社の言葉に対して応答していくことで、自己を超越していく存在である。


「人間とは何か」 麗澤大学出版会 大島末男著 


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