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プラトン 「メノン」 徳について

  本書は、徳(アレテー)について、ソクラテスが裕福な家の若者メノンと対話するものである。   冒頭にメノンはソクラテスに対して不躾にも「徳(アレテー)は教えられるものでしょうか?」と問う。   当時のアテネやギリシャ全体の社会情勢を表す一場面であるように感じられる。人々は弁論によって自らの優秀性を表現し、社会で認められて重要な位置につこうとする。社会を上昇していく人々にとって、優秀性こそが徳であり、それは弁論で表現される。   また、弁論術、つまり人との討論で相手を打ち負かして自分の意見を認めさせる技術、を教える教師がいた。所謂、ソフィストと呼ばれる人々であった。ソフィストは討論のどちら側の立場に立っても相手を論破できたが、それは議論のための議論でしかなく、彼らの議論の中に真理が無いことの裏返しでもあった。   メノンがソクラテスに徳のことを問うたとき、メノンは自信満々であったことだろう。しかし、ソクラテスは、メノンやソフィストのような人々が抱いていた徳への考え方、徳とは自己の優秀性であり、弁論によって明らかになるし、弁論術は教えられるのだから、徳は教えられるのだという考え方に否定的であった。   ソクラテスには、そもそも徳は何かもわからないのに、徳を教えられるかどうかはもっとわからないのである。それで、ソクラテスは徳が何であるかメノンに教えて欲しいと乞う。   メノンの答えは、社会や家をよく治めること、支配することであった。勿論ソクラテスはこの答えに満足しないで、支配するにあたり、正義を持って当たるのかどうかと尋ねる。   しかし、正義が徳であるなら、徳の一部(正義)を使って徳を説明していることになるから、その説明はおかしいとソクラテスは言うのである。   ここから話は、徳の探究の前に、議論の方法を議論していく。   ソクラテスは、幾何学の形の定義を例に出して、概念の定義の方法を議論する。定義の中に、議論の対象にしている概念が入ってはいけないのであると。   さらに、当時のソフィストが議論のための議論として持ち出したパラドックスも議論する。 「人間には知っていることも知らないことも、探究することができない。 知っていることであれば、人は探究しないだろう。その人はそのことを、もう知っているので、このような人には探究など必要ないから。 また、知らないことも人は探究で

レーニン 「帝国主義論」 資本主義の意味すること

レーニンが観察した資本主義の構造とは以下のようなものであった。 資本主義は、自由競争によって開始されるが、時間が経るうちに大資本への集中プロセスが進み、ついには少数の大資本による独占に至ってしまう。しかも、生産や財産の私有が規制無く普通に行われる環境では、産業資本は必然的に金融資本によって支配されるようにもなるから、少数の大金融資本による世界の独占支配が生じる。更に資本が一国から外へと輸出されて、世界は資本によって支配され、資本によって分割されていく。 「帝国主義は、資本主義一般の基本的性質を拡大し、直接継承する形で成長を遂げた。しかし資本主義は、その発達が一定の非常に高度な段階を迎えたときに初めて帝国主義になったのである。」 少数の大資本によって世界が分割され支配される状況、自由競争が独占に変容する状況、これこそがレーニンが帝国主義と呼んだものである。 自由競争が独占へと変わるにつれて、小規模生産は大規模生産によって市場から駆逐されてゆき、更に大規模生産は巨大生産によって駆逐される。生産と資本は集中を続け独占体が現れる。独占体とは、カルテル、シンジケート、トラストおよびこれらを支配する資本のことを言っている。 この結果として、先進諸国には再生産に必要とされる以上の過剰資本が発生するに至る。過剰資本は、その国の大衆一般の生活向上のために利用されることはない。そのような社会福祉的なことへの資本の利用は、資本の持ち主である資本家の利益に反するからである。資本は、資本を更に増大させるためだけに利用されるのである。 ある国で資本主義が発達するにつれて、企業の生産効率は向上していくが、国内で資本を投下して十分な利益を上げられる投資先が無くなると、資本は後進国へと輸出されるようになる。そこでは資本が少なく、土地、賃金、原材料が安いから、投資による効率改善が比較的容易にできるため、利益を上げやすいからである。 こうした資本輸出による支配は、世界分割を引き起こす。国内市場と国外市場が結びつくことで世界市場が形成される。これが、植民地化による世界分割や、覇権競争を生み出していく。世界全体がヨーロッパ強国によって分割された後も、分割は固定化されず再分割が可能である。しかし、その再分割には、戦争が伴うのである。 資

安部公房 「Sカルマ氏の犯罪 」社会の中の壁、疎外感

主人公は、朝起きると自分の名前が思い出せなかった。誰かに聞いても返事はもらえず、自分ではさっぱりわからなかった。名前が無いと、ツケで食事もできないし、病院にも行けなかった。誰も相手さえしてくれない。要するに、社会的な信用は消えてしまい、社会の一員であることを続けられなくなったわけである。社会からの疎外感が、寓話のように淡々と物語られる。 主人公にとって、名前を取り戻すしか生きていく道は無い。 主人公は自分の会社に行ってみると、そこには、彼の名刺が彼になりすましてY子と会話していた。Y子は気が付かないのだ。すべては、主人公を社会の外に押しやり、代わりに自分が社会の一員になろうという、名刺の企みであった。 それにしても、物によって取り替えられる人間存在。それほど希薄であったのだろうか。著者の眼差しは厳しい。 こんな具合に理性がやくだたなくなり、自由がなくなると、必然と偶然のけじめがまるでなくなって、時間はただ壁のようにぼくの行手をふさぐだけです。たとえY子の言うように、すべてが想像だとしてもそれがぼくだけの想像ではなくみんなに共通の想像であれば同じことです。現実からこのおかしな想像をマイナスすればいったい何が残るというのでしょう。(77p) 名前を失った主人公はカフカの「審判」のように不条理に裁判にかけられる。名刺の企みが発端ではあるとしても、その小さなきっかけで裁判が進んでいく社会とは何だろうか。社会を動かすのはもはや特定の人では無く、社会は誰も動かしていないのに自然に動いているのだとしたら、これほど怖ろしいことはあるだろうか。 「その論告によれば、歴史に記載されたすべての事件犯罪、ならびに現在行われているすべての裁判があなたに関係し、あなたの責任であるというのです。なぜなら、そのどれにもあなたの名前が記載されていない」 「あなたには名前がないのだから、そう言われても仕方ないでしょう。否認する証拠はないのです。」(95p) あなたにとってこの裁判が不利なのは、その期間中、言いかえれば永久にあなたには法律の保護がないという点です。なにしろ人権というものも、つまりは名前に関するものですからね。(96p) しかし、名前が無いというだけで、自分と社会の間には見えない壁ができてしまうと

安部公房 「デンドロカカリヤ」 意味の喪失

「デンドロカカイヤ」は、安部公房の書いた美しくも物悲しい散文詩だと思う。変身する青年の心の世界が、著者によるナレーションで詩的で寓話的に描かれている。 著者から見ると、現代社会に生きる人間は生きる意味を見つけられずに時間が流れるままに無為に毎日を過ごしているのだろうか。 生きる意味を見失っているから心の内面世界が外界と区別できなくなるので、著者が描写する主人公の周囲の風景がそのまま心の風景と重なり合っていく。 「分るだろう。誰だってそんな憶えがあるにちがいない。思わずあたりを見まわして、他の人もそんなことをするものかどうか、そっと確かめてみたりする。」 「なんと、植物になっているんだ!ぐにゃぐにゃした細い、緑褐色の、木とも草ともつかぬ変形。」 変形するというのは、今持っている何かが失われて植物になるのではない。今と同質の別の形になるということ。主人公と植物は、最早同質であるというのか。生きる意味を喪失するとは、突き詰めると植物のように生命を維持しているだけなのだろうか。人間であるとは何を意味するのだろうか。 「それから、あたりが真暗になった。その暗がりの中に、夜汽車の窓にうつったような、自分の顔が見えた。むろん錯覚さ。なんの錯覚かって、コモン君の顔は裏返しになっていたんだ。あわてて顔をはぎとり、もとに戻した。瞬間、すべてはもとどおりになっていた。」 主人公が植物になりかけた刹那、彼は心の風景を目にする。それは夜汽車の窓に映るような自分の顔である。何かのっぺりとした殺風景とも言える、自分以外が何も無い世界。人の心はもっとどろどろした醜いものではなかったのか。 何回か植物になりかけては元の姿に戻り、人間のままであったが、とうとう最終段階に達してしまった。 「そう、空を見上げていたんだ。するすると、天が眼の中へ流れ込む。重い天が、やがて全身に充満して、いやでも内臓は体の外部に押出されて行った。顔の上では、どこにいこうかとためらっているあやふやな腰つきの誰か…、見ればむろん自分にちがいない。暗闇にうつる自分の顔。地球がどろどろ鳴っていた。気持ちのよい飽和感の酔い、とうとう発作が始まったんだね。」 飽和感の向こうに、自分の意識は喪失し、主人公の精神と肉体は永遠の眠

グレアム・グリーン 「キホーテ神父」 

ドン・キホーテの子孫であるキホーテ神父は、ローマの枢機卿が自動車の故障で道端で困っているのを偶然助けたことから、枢機卿の特別の推薦によってモンシニョールの尊称を受け取ることになった。 モンシニョールの尊称は、カトリック教会に対して多大な貢献をした高位聖職者でもなければ授与されるものではなかった。キホーテ神父のようにスペインの田舎町でずっと神父をやってきた者に相応しいものではないと、周囲の者は感じた。特に彼の上司でもある司祭には強く感じられた。もともと、素朴なキホーテ神父と反りが合わなかった司祭は、モンシニョールの尊称を持つ者がこんな田舎の教会にいるのは相応しくないという理由で(勿論強く嫉妬を感じつつ)神父を追い出してしまった。 キホーテ神父は、丁度その頃に落選して暇になった前町長のサンチョとスペイン国内の旅行に出かける。ドン・キホーテのお供をしたあのサンチョ・パンサの子孫であるサンチョ(本名はエンリケ・サンカスといった)は、共産党に属していたから、神父と共産党員という面白い組み合わせの旅路となった。 現実的なものしか認めない共産党員と、現実の厳しさに打ちひしがれても信仰に生きる無垢な心の持ち主の神父との対話は、無神論で唯物的な生き方をする現代人と作者との対話でもある。 二人には、共通点が無いようで、実は自分が信頼している思想や信仰に、疑惑や躓(つまずき)を持っているという共通点があった。真に理想を信じているからこその心の揺れである。その疑惑をぶつけ合うことで、同じ信仰を持つ者同士よりも二人は親密になっていった。 共産党員はスターリンのやったことに疑念を持ちつつ無視していたし、信仰者はこの世の矛盾に神の御心を測りかねて心を乱されていた。 「地獄の観念に心を乱されて、眠れないことがしばしばあります。あなたもまた、スターリンと政治犯強制収容所のことを考えて、同じような夜を過ごしたことがおありだと思います。 わたしもまた、同じ夜間に、自分自身に問いかけていました。このようなことがあり得るのだろうか…憐れみぶかく、恵み多き神が…?」 サンチョは、共産党員になる前は神学校で学ぶ信仰者であった。一度は信仰の道を歩みながら、自分の罪深さから目をそらすように共産主義へと身を翻した。 「わしはあんたの不合理な盲信を笑うが、あのころのわし自身も、ある

安部公房 「第四間氷期」 未来と向き合うとき

この作品が執筆されたのは昭和33年(1958)前後であるが、先見性のある著者は、現在の我々にとっても大きな影響を持つ人工知能、バイオテクノロジー、地球温暖化などの科学的で社会的でもある課題を取り上げ、近未来を描いていく。 主人公の勝見博士は予言機械、いわゆる人工知能を研究開発する研究者であるが、予言機械を開発していることが原因となって、謎の事件に巻き込まれていく。 勝見博士たちの予言機械には、競争相手があった。朝鮮戦争や冷戦という時代背景もあり、共産主義国のモスクワ1号、2号という予言機械がその相手である。 モスクワ1号、2号も勝見博士の予言機械も、実に近未来を予測し、見事に成功を収め始めた。 予言機械《モスクワ1号》によって、人類はたしかに未来をこの目で見てしまったのだ。 しかし、予測が当たり始めると、予言機械の開発を止めるように研究所の上層部から圧力がかかるのである。予測が当たると、実社会の政治や経済に大きな影響を与え、取り返しのできない事態に陥ってしまうからであった。 そこで、どうしても研究開発を継続したい勝見博士は、政治経済に影響を与えないはずと考えた普通の個人の未来を予測することにした。研究対象は無作為に抽出されていなければ科学的と言えず、そのため助手の頼木と二人で街を歩き偶然に出会った特徴の無い標準的と思われる中年男性を選んだ。 ところが、その中年男性が彼らの隠密の追跡中に、殺されてしまう。ここから物語は緊張感を読者に与えながら、勝見博士を次第に暗澹な運命の罠へ落としていく。詳しい話はここには書かない。 先にも書いたが、科学的で社会に大きな影響をもたらす大きな課題が扱われている。これらの課題を安部公房のような叡智によって分析すると、この物語に書かれたシナリオが導き出されるのかもしれない。 しかし、我々読者は、著者からの問いかけに真剣に向き合わざるをえない。 人工知能によって予測可能になった社会はどのように人間の目に映るのか?予測されたものが社会的な危機であっても人間はそれを受け止めて、冷静な判断ができるのか?社会を救うために判断された結論が非人間的であっても、遂行すべきなのか?あるいは座して何もせず滅亡を待つべきなのか? 暗澹とした未来、著者からの問いかけに、読者は苦悩の連続を強いられる。 ここで問われてい

安部公房 「砂の女」

男は、昆虫採集のために訪れた駅を出た後、失踪してしまう。 男は、新種の昆虫の発見者となって、虫の名前に自分を刻みたいと考えていた。昆虫マニアは大勢いて、しらみ潰しに探されているのだから、普通の虫では到底無理である。だから、人が興味を持たない虫を扱う必要があったのだ。砂丘に棲むハンミョウを探すのが、その寂しい部落(著者がそう書いているので、ここでもそう記す)に入った理由であった。 一日海岸の砂丘(部落から海に向かって砂は次第に盛り上がっていた)を駆け回ったが、目的の虫は見つからず、仕方なく引き上げようとすると、部落の者が寄ってきて、今夜の宿を紹介してくれるという。それで、男は、女が住む家に入ったのである。しかし、それから、男は、その家から外に出られなくなった。 その家は高さ数十メートルの砂の山に囲まれて、家に入るにも、まず縄梯子で地上に降りる必要があった。飛び砂が海風に吹き寄せられて、部落の海側には砂丘が聳え立っていた。砂に作られた蟻地獄の巣のように、各住戸の周囲だけ砂丘に穴が開いて、家が立っていた。砂は毎日毎時間休みなく吹き寄せるから、住戸に住む家族は、雪掻きや雪下ろしの如く、砂を掬っては穴の外へ運び出さねばならない。重労働である。女一人で家を砂から守って行くのは到底無理であった。だから男が部落の者によって騙されて連れてこられ、以降、ずっと砂掻きを手伝わされたのだった。 部落にとっても、一軒一軒の家が砂にうずもれて消えてしまわないように注意することは死活問題であった。一軒が砂の中に消えるのは、防波堤が綻びることであり、それは部落全体の消滅を意味した。部落にはかつてはもっと人がいたのであるが、余裕のある者、自分の力で外の世界で生きられる者は、部落から逃げ出していた。役所はそんな貧しい所の面倒は見てくれなかった。結局部落は世の中から見捨てられた存在となっていた。自分たちの命は自分たちで守るしかないから、男を監禁してまで砂の家を守らせたのであった。 男が入れられた家に住んでいた砂の女は、家族も頼る者も持たず、見捨てられた部落にすがって生きるしかない存在であった。 書き出しの章で昆虫採集という趣味に囚われる男の性癖が婉曲に語られ、読者は男にひ弱な印象を植え付けられるのだけれども、その予想に反して、男は強靭な意志を持っていた。何度も砂の家から逃げ出すが