小林秀雄 「考えるヒント2」 天という言葉
小林秀雄の随筆は、深い思索に裏打ちされた、水墨画の筆致のような一度限りの作品だと感じられる。文章はすらすらと流れていて、著者が築き上げた思想が沈む精神世界の海底から、表面に浮き出てくるものを下絵なしにさらさらと白い紙に描いているような印象を受ける。 さらさらと文章は流れていくが、書かれている内容が難しい。天という言葉ということについて、天とは何かとは定義もしないし、説明もしていない。天という言葉についてどういう思索をめぐらしたかという、思考の過程が垣間見られるだけである。そこに現れている文章は一閃の輝きを持っており、読者の心を掴み、読者自身による思索へといざなっている。著者の文章には定義も説明も無いのであるから、読者は自分で考えるしかない。しかも、著者の思索は、著者の器の大きさを現すがごとく、あちらこちらへと大きく移り行く。 我々現代に生きるものは、天というと、世界のことだとか、宇宙だとか、そんな事物的なものに扱っている。しかし、古来から天はそんな浅薄なことを現すために使われてきたのではないという。我々はひどく無頓着な意識でもって生きていることになる。 人生の意味について自問したどんな沢山な人々が、この同じ言葉を使って来たか。(p.125) これは使われてきた言葉というよりも、寧ろ、注意深く眺められ、その意味を問われて来た言葉だと言った方がいいかもしれない。(p.126) 天という言葉は、人生の意味について問う者が、人々の内的な生活に横たわっている何か言い表せない微妙な心情を表現したものであると、著者はいう。この言葉ほどに、うまく表現できた言葉が他にはないのである。それは何を表しているのか、それは定義できなくて、うまく言い表せないものなのである。だから各人が自身で考え捕まえるしかない。 天という言葉が象徴的だったという意味は人生の意味を問おうとした実に沢山な人々の、微妙な言い難い心情に、この言葉は、充分に応じてくれたし、その点で、これ以上鋭敏な豊富な表現力を持った言葉は考えられないと誰もが認めていた、という事なのであり、従って、この言葉は、自覚の問題が、彼等の学問あり教養なりの中心部に生きていたことを証言していると、そういう意味だ。(p.127) 特に最後の部分が非常に大切...