ホイジンガ 「中世の秋」 中世精神の地下水脈

ホイジンガは、「中世の秋」において中世末期15世紀のフランス・ブルゴーニュ候国とネーデルラント地方について語っている。特定の時代の特定の地域だけに焦点が当てられているにも関わらず、中世の精神とでも言うような、中世文化の本質的なものを読者に対して語りかけている。

15世紀、中世という時代は終わりを告げようとしていた。延々と神々(こうごう)しく輝いていた中世はまさに過ぎ去ろうとし、秋の夕暮れのように時代が傾く中、中世の精神は結実し赤く熟した時期であった。つまり、長きに渡って形作られてきた中世文化は完成し、そして死を迎えようとした時期であった。かたやルネサンスが萌芽しようとしており、その準備がされていた時期でもあったが、ホイジンガはあくまでも中世という視点で15世紀文化を観察し記述した。

この書物は、十四、五世紀を、ルネサンスの告知とはみず、中世の終末とみようとする試みである。中世文化は、このとき、その生涯の最後の時を生き、あたかも咲き終わり、ひらききった木のごとくたわわに実をみのらせた。古い思考の諸形態がはびこり、生きた思想の核にのしかぶさり、これをつつむ。ここに、ひとつのゆたかな文化が枯れしぼみ、死に硬直する--これが以下のページの主題である。(上巻p.7)

本書は、中世という時代を、歴史的事実の整理という表面に見えやすい形式で説明するのではなく、失われてしまったかと思われていたその時代に生きた人々の精神世界を覗き、中世文化の精神的な本質を描ききろうという大胆な試みなのである。

中世という時代を形成し支えていた精神構造の中にまで進み入り、地下水脈の如き心の世界を見事に描ききっている。ホイジンガは、自らの精神世界において中世人の残した文献や芸術作品を道標(みちしるべ)に中世末期まで辿りゆき、中世人になりきった自分の精神を観察し、地下水脈のように心の奥底に流れる精神の動きを捉え描写した。その結実として本書が生まれた。天才にして初めてなせる業(わざ)である。

そこで描かれているのは、表の世界、つまり中世貴族の優雅な生活と華々しい戦場での活躍から直接には窺(うかが)い知れない、中世人精神の激しい動きと陰鬱さである。

中世という時代、幸と不幸との隔たりはかなり大きなものであった。冬の厳しい寒さや底知れぬ闇、癒されぬ疫病、飢饉など、災禍と欠乏に安らぎはなく、生活は苛酷であった。たとえ君候や僧侶と言えども、その苛酷な現実から逃れることはできず、華やかな暮らしをしている者が、天災、謀略、病、発狂などによって明日にも命を奪われることが珍しいことではなかった。人生が苛酷であったからこそ、栄誉と富は熱心に追い求められ、華やかに誇示された。日々の事件は、幸も不幸も我々の目から見ると異常な激しさで以って祝われ嘆かれたのである。

君候、騎士、僧侶、庶民など人々が厳しい現実に諦めを抱いていたからこそ、美しい理想にあこがれ、切望された。それは、礼儀作法、騎士道理想、象徴主義など様々な面に現れた。本書で扱われている中世文化の諸相の中で、例えば騎士道理想について言うと、貴族達の生活に重大な意味と影響を与えていた。

おしなべて中世の思想は、そのすみずみにいたるまで、信仰にそくした考えかたに浸され、いわば、塩漬けにされている。これと同じぐあいに、宮廷あるいは貴族社会の環境に生きるグループに限ってみれば、その人びとの思想は、おしなべて、騎士道理想のなかに、とっぷりと漬かっている。信仰にそくした考えかたそのものが、ここでは、騎士道理念の魅力にひきつけられてしまっていた。(上巻p.224)

貴族は、世界平和の追求、十字軍によるエルサレムの征服、トルコ人の駆逐など、夢に生きていた。当時書かれた年代記には王侯の華々しい活躍が記されているが、現実は違っていた。理想とは裏腹に、戦争は広大な地域に見られ慢性化していたし、政治の世界では外交術が技巧と化して使い物にならなくなっていた。年代記そのものが、王侯の名誉栄誉を著述するものとなりさがり、歴史叙述とはかけ離れた存在となっていた。そこに見えるのは、後代に評価されたいと望む騎士の名誉欲であった。

騎士道思想は、美しい生活の理想としては、きわめて特殊な型のものだ。ほんらい、それは美的理想であって、多彩な空想、心につのる感動を素材としている。ところが、それは、さらに、倫理的理想であろうともする。ということは、敬虔と徳とに結びつこうとすることだ。中世の考えでは、そうすることによってはじめて、ある生の理想に、高尚な位置が与えられるのだから。ところが、騎士道は、この点でいつもつまづく。その罪ぶかい起源ゆえに、ひきずりおろされるのである。というのは、この理想の核心は、美にまで高められた自負心なのであったから。(上巻p.128)

ホイジンガが描いている騎士道思想が如何に真実に迫っているか、セルバンテス「ドン・キホーテ」の物語を見ればよい。ドン・キホーテにおいて描写された騎士道や中世の精神は、ホイジンガが語ったものを具体的に実に生きいきと目の前に提示してくれている。現実を無視して滑稽なまでに理想を追求し自負心を満足させようとする姿、苦難を捜し求め名誉を勝ち取ろうとする姿、自らと同じ身分の騎士だけを相手として認め庶民は無視する姿、それらはまさに中世の騎士そのものである。


中世キリスト教世界にあっては、全てのことに宗教的観念が染み渡り、全ての行動が信仰に関わっているとみなされていた。事物全てにキリスト教的意味が問われた。長い時を経て考え抜かれた中世思想が結実していた。中世思想は完成したが、それゆえに古く形骸化しかけてもいた。新しい思想は未だ息吹を感じられなかった。


我々の住む世界は、劇的な変化を遂げようとしているといわれる。もし、一つの時代が終わりを告げ、新しい時代が産声を上げようとしているとしたら、ホイジンガが描いた中世の終わりの時代は何かこの先の道標(みちしるべ)となるものを与えてはくれないだろうか。


「中世の秋」 中公文庫 ホイジンガ著 堀越孝一訳






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